とある看護師は寝たきり高齢者の夢を見るか
まぁ、もしかしたら、寝たきり高齢者達は、本当に植物の夢を見ていて、幸せで、楽しいのかもしれません。
実際、よくご家族に囲まれている患者もいらっしゃいましたし、「亡くなってしまったら寂しいから」という理由でご本人に対して人工呼吸器まで選択されているご家族の方もいらっしゃいました。
そういう幸せも存在するでしょうし、そこに至るまでにも様々な事情や葛藤があったことだろうと思います。
それに、このように考えていようが、所詮はしがない一看護師。
患者やその家族のご意向には干渉する術を持ちませんし、そこまでの権限はありません。
今日も今日とて、病棟で一人一人に合ったその時その時の最善のケアを考えながら、働いていくしかないのです。
むしろ、あの状態こそが、人が最期に行き着く姿だと当然のように受け入れられ、誰もが納得する未来が来るのかもしれません。
私の同僚(まだ二十代前半ですが)でも、寝たきりの患者を、「可愛い」と言ってケアをしている人がいました。
その人は、その現状を受け入れているようで、私などより余程懸命に患者のために働いていました。
また、患者のことを「枯れゆく植物のようだ」と愛でる医師もいると聞きましたし、それを是とする人もいました(それがそもそもあの記事を書いた発端なのですが)。
そんな風に、この状態を受け入れられないようなら、看護師なんて辞めてしまえ、と。
実際、私はその職場を辞めましたし、このこと以外にも色々あって、二度と病棟に勤める気持ちはございませんのでご安心ください。
ただ、私はもう少し、自分の未来に希望を持ちたいのです。
もちろん、同じ人間なんかが命の選別など出来る訳がございません。
どなたにも生きる権利がありますし、それを否定する気なんてありません。
その方がそのような状態になるのも、まぁ、私達の預かり知らぬところで、何か意味があるのかもしれません。
それに、他の、意識のある、看護師の業務を超えた要求をしてくる患者よりは、看護師を召し使い扱いすることもなく、新人の未熟な技術にも文句を言わず、こちらにとっては大変都合の良い患者だったのではないかと思います。
でも、自分がそうなりたいか、と言ったら、全くそうではありません。
途中で何もない限り、誰にでも等しく老後は来ます。
ただ、自分の生まれは自分で決められなくても、自分の最期は自分で決められなくても。
私は、最期までの時間、自分がどう在りたいか、ぐらいは、自分の意志で決めたいです。
たとえ植物の夢がどんなに美しくとも、私がそれを自分から選ぶことはないでしょう。
植物のように愛でられ、何も出来ない状態を「可愛い」と言われても、最早それは私ではないのです。