海のまにまに

社会人三年目看護師の青海波の備忘録。転職3回、辞めたい、やる気ない看護師のための生存戦略について書きます。ついったー→@M3TrEpFEYj8F0ac

休職中の手慰み ~推しのグッズを手放したヲタクの話〜

「ありがとう トゥインクルスター」

 

 

 今年の三月に意気揚々と買った、私の狭い部屋の白壁の十分の一は占めていた、華やかなピンク色の推しのタペストリーを、外した。理由は、査定にかけて、適正価格で手放す為である。
 この一年近く、常に彼女は真近で私のおはようとおやすみを眺めていた訳だが、恐らく、時間が経つにつれて、どんどん塞ぎ込んで暗くなって自暴自棄になっていく私を見て、きっと心を痛めていたであろう。私の思い描く推しであれば、そういう反応を見せてくれるに違いない。だって、原作の中でも、彼女は誰のどんな主張も否定はしなかったのだから。

 私は社会人である。四月から部署異動をして、親子以上に年の離れたベテランの職員にいびられて精神を病み、先月から休職を開始した。そのことについて散々上司に相談し、ついには前の部署に戻して欲しいと要請しても、「他の人の都合もあるし、あなただけに優しい人で固める訳にもいかない。こんな理不尽はこれからもたくさんあるし、どうか乗り越えて欲しい」と言われるだけ。ちなみに、ベテラン職員は『上司からの厳重注意』のみで、その他には何のペナルティもないようだ。
 どうやら、私の居る業界だけでなく、世間一般全体的に、こんなことは「よくあること」らしい。

 タペストリーの推しにハマったのは、一年前。
 そのアニメのストーリーも推しの性格も行動も、私は大好きだった。おとぎ話のようなファンタジーな宇宙を飛び回り、その星々に暮らす住民達と交流をし、宇宙を侵略せんとする悪の組織と対峙する。しかし、物語の後半、その悪の組織にも色々と事情があったことが見えてきて――。
 とまぁ、よくある話といえば、よくある話である。なまじ子ども向けであるので、全体のテーマとしては、「相手の気持ちを想像したり、話し合いを重ねたりして、相手と自分を知り、お互いを尊重しながら生きていこう」みたいな感じだと、私は受け取った。いや、もっと深く語ろうと思えばこんな言葉では足りないし、これ以外に大切なメッセージもたくさん含まれている物語だけど、概ねそんな感じの、希望に満ち足りたお話である。
 当時、私はグッズを出来る限り買い漁った。それでもガチ勢の皆様に比べたら可愛らしいものだが、キャラクターショップに足繁く通い、食玩フィギュアを全種類揃え、主題歌やキャラソンのCDもBluRayも、大人向けのお高めなグッズも馬鹿みたいに皆買い揃えた。もちろん、ライブも当選すれば行った。
 ヲタクとしては、どれも当然の行動なのだ。ヲタクは推しのグッズ集めに余念が無い。もちろんそちらには食指が動かないタイプのヲタクもいるが、だいたいは推しのグッズを欲しがるものだし買いたがるものである。私も当然そんなヲタクの一人だった。

 その頃は、仕事は上手く行っていた。自分の仕事は大嫌いだったし飯の種ぐらいにしか思っていなかったが、周りの人達に恵まれ、法外に早い出勤時間や、残業が二~三時間過ぎるまで仕事が物理的に終わらない場合があることを除けば、良い職場だった。
 金回りも良かった。片っ端からグッズを買い集めても、まだまだ全然余裕があった。元々私はお洒落とか身嗜みとか、自分にお金をかけるタイプではない。はっきり言えば、ハナから結婚願望のないクソ喪女である。だからこそ、狂ったように推しに全てを賭けた。

 彼女のことは今も好きだ。多分、これからもずっと好きだ。死んだ後も好きだと思う。最初の放送で、宇宙を軽快に跳ね回っていたシーンを見てから、ずっと。
 だけど、完全にメンタルを潰された今、スン……、と火が消えたように、あの、部屋の白い壁に飾った華やかなピンク色を見るのが、辛くなってきてしまった。

 今の仕事を休職するのは、実はこれが最初というわけではない。新卒三ヶ月頃に一回休職して転職、それから社会人二年目の夏に休職して転職――、そして、今回の休職、というわけである。
 忙し過ぎる職場環境。当たりのキツい上司や利用者。自分の技量不足。変わらない給料。その癖膨張し続ける責任の重さ。学び続け、技術を高め続けることのしんどさ。当然のように強要され続ける自己犠牲。
 歳を重ねるにつれて強まる、『この仕事が嫌い』、『こんな仕事しか出来ない自分が恥ずかしい、情けない』という劣等感。
 とは言いつつ、それだけが原因ではないのだろう。学生時代に意識の高い教員から詰られたトラウマも未だに残っている。私が弱いだけだ。私が社会に向いていないだけだ。多分、他の業界に行ったとしてもそれは変わらない。
 一回壊れたメンタルは、それ以上は強くならないしなれない。ぐちゃぐちゃになった紙を広げても、元の綺麗な白紙に戻らないのと同じだ。
 どこの業界にも、どんな仕事にも、誰の人生にも、それぞれ違った地獄がある。
 自分だけではない。
 他の人は乗り越えられたことだ。
 あの子も、最後は宙を跳ねることが出来なくなっていた。だけど、自分の力で、十五年懸けて、ひとつの夢を叶えた。そんな華々しい物語の裏で、彼女も様々な地獄を見て、それに耐え、乗り越えて来たに違いない。
 だけど、私は違う。私は、この弱さを克服出来る自信はない。今回のことを乗り越える自信はない。それどころか、歳を経るごとに、どんどん弱く脆くなっていくのを感じる。
 こうして生き続けなければならないのは、とんでもない苦行だ。いつかは自分で死んでしまうかもしれない。
 それでも私が今死なないのは、実家住まいであり、同居出来る程度に家族と仲が良いからだ。これは紛れもなく僥倖なことで、世の中には戻れる家も場所も人も無く、一人で全てをどうにかして生きていかないといけない地獄もある。
 もしかしたら、私も『休職』などと口にした瞬間に、家から叩き出されていた地獄もあったかもしれない。そう考えると、私の地獄はまだ生温い方なのだろう。

 彼女が夢を叶えて宇宙に旅立ったのは三十歳。私も、四捨五入すればとっくにその年齢に達するところまで歳を重ねてしまった。
 私は宇宙には行けない。才能もないし、不断の努力も出来ないし、確固たる意志も持ち合わせてはいない。
 宙を飛べないのならば、地上で生きていく術を探すしかない。蛹にもなれずに這いずり回る芋虫のように。無様でも悲惨でも何でも、なんとか私は私なりにこの地獄で生き続けられる方法を探さなければならない。

 大切に大切に、袋に詰めて、緩衝材を幾重にも巻いた。箱には丸めた新聞紙をありったけ敷き詰めて捩じ込んで、ガムテープを厳重に貼り、狂ったように『割れ物注意!』と書いた。何も、売るのはタペストリーだけではない。
 熱に浮かされて、片っ端からグッズを集めた一年前のことが、今となっては夢のようだ。
 だが、私はそれらを全て持ち続けていられる程の人間ではなかった。多分、ただ単に、『ヲタク』という属性を言い訳にして、ひと時の、衝動的な、部屋いっぱいの所有欲と支配欲を満たしたかっただけだった。
 
 彼女が居なくなった部屋は、華やかなピンク色から地味な白に変わった。寂しさと共に、本来の自分が戻ってきたような、肩の荷が降りたような安堵を感じる。

 私にとって、星は見上げるだけで良かったようだ。